39.第三章 第九話




「ホーリーライト!!」
「くっ……」

 イーヴの唱えた紋章術は、どれもレオンが見たことも無いものばかりだった。今唱えたホーリーライトという魔法もそうだ。レオンにとっては聞いたことも見たことも無い。

「ふん。エクスペルにはこのような紋章術は無いだろう」

 イーヴはそう言い放って次の詠唱の準備をする。レオンもなんとかそれに持ちこたえるため、同じく呪紋で対抗しようとした。

 今レオンは郊外を少し出たところ、ラクール市街地の裏手にある山の裾野で戦っている。相手は紋章術師のイーヴと格闘家のグレッグ。いずれもかなりの手練れのようであり、イーヴの紋章術もさることながらグレッグの素早い動きもレオンを翻弄させていた。

「なんなんだ、この紋章は?」

 レオンのそういった落ち着きの無い精神状態が、目の前でホーリーライトのまばゆい光を受け、消滅していくデモンズゲートの死神に現れている。完全に守りの体制となり、未知の攻撃を防ぐのに手いっぱいだった

「ホーリーライトは聖なる光で悪しき心を持つ者に制裁を与える紋章術だ。この星の紋章術だとライトクロスのようなものだな。威力は雲泥の差だが」
「ちっ……」

 そう舌を打つしかないレオン。防衛にまわる一方だということが悔しかった。

「お前たちは何物だ!?」

 レオンはありったけの声でイーヴに叫んだ。

「どうしておまえ達はネーデ崩壊のことや時空転移シールドを知っているんだ!?」
「……」

 その虚しい叫びは、遠い山脈の斜面に木霊して消えていく。

「……教えることはできないな」

 イーヴは無表情でそう答える。レオンにはこの男が気味悪く思えた。未だ一つ表情すらも変えていない。話し口調もいつも一緒だ。喜怒哀楽といった感情があるのかどうかも疑わしい。

「おいおい、ぼーっとしていていいのかよ?」

 レオンははっと後ろから近づく存在に気が付いた。夕日がグレッグのスキンヘッドに映り、その素早い移動をレオンはその光の反射から見切ることができた。

「くっ……!」

 レオンは寸でのところでグレッグのパンチを右に避ける。気を抜くと忘れてしまいそうになるが、敵は二人居るのだ。

「なかなか運がいいな。だがそれもいつまでもつかな?」

 殴りにかかった手をぶらぶらとさせながらグレッグはケラケラと笑った。

 彼の溢れんばかりの筋肉は、ぴっちり身につけられた灰色の戦闘用スーツの上からでも分かる。これには特殊な技術で作られた硬素材が用いられているようで、そういった点からも彼らが異星からやって来た人間であることは間違いなかった。

「私達の会話を聞いてしまった以上、ただで返すわけにはいかん」

 イーヴの言葉はぞぞっと重く地を這った。その不気味で力強いオーラから本気でやばい奴だと感じたレオンは、頼むから誰かさっきのデモンズゲートに気が付いてくれと心の底から願った。

 セリーヌは恐らく仲間を呼びに行っているのだろうが、それではとても間に合いそうにもない。誰でもいい、とにかくこれ以上一人で戦いたくなかった。

「今は何とか耐えなきゃ……」

 再び襲ったグレッグの風を切る拳の唸りをまたもやヒラリと避けたレオンは、手に持っていた本を開き、動きながら詠唱を開始した。彼はセリーヌとは違い、魔力のこもった本を媒介に詠唱することで紋章術の威力を大きくしている。レオンにとって、魔術書は武具大会で使っていた杖よりも格段に使い心地がいい。お荷物となった金属製の杖は先ほどそのあたりに捨ててしまっていた。

「ディープフリーズ!」

 レオンが呪紋の掛け声を発すると同時に、円錐型をした氷柱がイーヴの上空に現れた。狙いは彼の足止めだ。

 あちこちを素早く乱舞するグレッグに紋章術を当てるには、範囲の広い術を使わなければならない。しかしそういう術に限って、長い詠唱時間を必要とするものだ。

 先ほどデモンズゲートを唱えたときも、詠唱が長すぎて術を完成させるまでの間に何度かグレッグに攻撃する隙を与えてしまった。これでは危険すぎるのでもう使いたくはない。とりあえずは詠唱時間の短い簡単な紋章術で、少しでもイーヴの動きを封じる作戦にレオンは出たのだった。

「そんなちゃちな手品のような攻撃が、私に通用すると思ったか。小僧めが」

 氷柱がイーヴめがけて一斉に降り注いだが、それを見たイーヴは何一つ焦ったような素振りも見せずに軽く後ろに身を引く。ディープフリーズの氷柱はターゲットを外れ、ギャギャンとガラスの削れるような音を発しながら次々と地面に突き刺さっていった。

「イグニートプリズン!」

 直後、ほとんど詠唱に時間をかけずにイーヴは大きな炎の塊をいとも簡単に作り上げた。レオンの紋章で霜の降りた地面が、その炎球の高熱でまたたく間に熔けてしまい、一瞬で灰になってしまう。

「くらえ」

 びっ、とイーヴがレオンを指差すと同時に、その炎球は轟音をたててレオンの方へと飛来し始める。

「まずい……!」

 目の前に向かってくる炎が相当に危険なものだと瞬時に察知したレオンは、急いで横へ回避しようとする。

 だが、真横へと移動したはずのレオンの目の前に現れたのは、あちこちに踏み荒らした形跡の残る、真っ黒い地面だった。何かに足をひっかけて転んでしまったようだった。

「しまったっ!」

 ズザッと太ももが擦れる。レオンが足元を見ると、さきほど自分が捨てた鉄製の杖がそこには転がっていた。どうやらこれにつまずいてしまったらしい。何の気なく捨ててしまった自分自身から出た錆だが、今更それを後悔している暇はない。

 焦る心を抑えて再度立ち上がろうとする。だが、既に荒れ狂う炎はレオンのすぐそばまで押し迫っていたのだった。

「イグニートプリズンの炎は、お前の周りに灼熱の牢獄を作り上げ、跡形もなく燃やし尽くしてしまう。これで終わりだな。さらばだ……」

 レオンはぐっと目をつぶった。熱風に襲われ、体が猛烈に痛む。

 自分はここで死んでしまうのか? 諦めたくはなかったが、そう観念せざるを得ない時が来てしまったらしい。もう少し長生きしたかったが、それも虚しく次の瞬間には全てを消されてしまうのだろう。

(リヴァルもこんなふうにして死んでいったのかな……?)

 レオンは我ながら不謹慎だなと心の中で笑いながら、ポケットにあるアクセサリーを握り締めた。リヴァルが自分に残していった、あのお守りをなぜか掴みたくなった。

(………………)

 そのままレオンは、自分の意識が心の海の遥か深くへと潜り込んでいくのを感じたのだった。





 気が付いたらレオンは、自分の内臓が何かに締め付けられ、強く引っ張られるのを感じた。大きな重力を感じる。

(……なんだろう、この感覚?)

 自分は今、間違いなく下方へと落下していっていた。

(まさか、これが地獄に落ちるってことなのかな……?)

 もし天国に向かっているなら今頃は空に向かって浮上しているはずだ。死を覚悟したら、次は地獄に落ちる覚悟までしなきゃならない。

 自分は今までそれほどの悪事を働いたのかどうか、今のレオンには考える余地も無かった。だが、何故かなんとなく可笑しくも思えた。全身に力が入らない。何もかもがあるがままになるよう、すっと身を委ねた。



――――ドスン――――



 重い音がした。同時にレオンの背骨に大きな衝撃が走り、その反動で再び宙に投げ出された。

(とうとう着いてしまったんだね。地獄の底まで……)

 不思議と悲壮感はない。レオンはただ、再び地面に叩きつけられる時を静かに待った。

 しかし、次にレオンの体に次に伝わってきたのは、地面と体が擦れるような痛みの感覚ではなかった。むしろ何か柔らかいものに抱えられたような。

(……えっ?)

 受け止められるようなその感触は、いつしかレオンの自由落下を完全に静止させていた。同時に頭の奥のほうから、小さな声が聞こえてくる。

「………オン、レオン!」





「ううん……」
「レオン、しっかりしろ! 気がついたか!?」


 目を覚ましたレオンの目に映ったもの。それは、金色の長髪に三つの目。そしてまだらに伸びた無精髭。

 そこには自分を抱きかかえるエルネストの姿があったのだった。

「ん……え、えっと………ここはどこ? ………っていうか、なんでエルネストがこんなとこに居るの? まさかエルネストも時同じくして死んだとか……?」
「そんな訳ないだろ。俺たちはちゃんと生きてるさ。周りを見てみろ」

 レオンに勝手に死んだことにされてしまったエルネストは、まずレオンを正気に戻そうと、抱えていた頭を持ち上げてレオンが周囲を見渡せるような体勢を作り上げた。

「あれが、さっきまでお前が居た場所だ」

 エルネストが指さした場所には、レオンの身長の二倍以上はある火柱が、どす黒い煙を散らしながら草原に聳え立っていた。その少し向こうには二人の男が静かに立っている。イーヴとグレッグだ。

 ぱちくりとただ呆然と瞬いていたレオンだったが、この場所がどこなのか理解すると同時に自分の頭が蘇ってきた。どうやら自分はエルネストに命を助けられた。少なくとも彼のおかげであの炎から逃れられたと。

「目が覚めたようだな。とりあえず、こいつは自分でほどけよ。面倒くさいからな」

 そう言ってエルネストは自分が持っている鞭の取っ手をビンビンと引き上げた。

「うわっ!」

 その張力にレオンは体のバランスを崩してしまう。再び転びそうになったが、今度はなんとか体勢を立て直す。足元を見ると、エルネストの鞭が何重にもレオンの足首に巻きついていた。

「ギリギリだったな。もう少しで炎に飲まれるところだった」

 エルネストは服の袖で汗を拭い、いま起こったことの一部始終を説明し始めた。

 彼がここに到着したとき、レオンの唱えたディープフリーズがイーヴの火炎魔法イグニートプリズンに討ち破られる場面が目の前で繰り広げられていた。そして地面に倒れたレオンの目の前には、なおも激しい炎の渦が空気を裂いてレオンに近づいてきていた。

 それを見たエルネストは、体が勝手に反応したと言ってもいいだろう。刹那にレオン目掛けて手に持っていた鞭先を放ったのだ。ものすごい速さでそれはレオンの元へと飛んで行き、足先にひゅるひゅると巻きついた。このとき既に放心状態だったレオンは、どうやらそのことに気が付かなかったようだ。

 足元にしっかりと鞭が巻き付いたことを確認したエルネストは、「ふんっ!」と声を上げて鞭を思いっきり引き上げた。その鞭に引っ張られるかのようにレオンの体は宙に浮き上がり、レオンのあのとき感じた不思議な浮遊感とは結局これのことだったのだ。

 これによってレオンの体は一瞬にしてその場を離れることができ、間一髪のところで炎の餌食とならずに済んだのだ。

「そうだったのか。エルネスト、ありがとう……」

 レオンは声にならない声でエルネストに言った。足元が突然ガクガクと震えている。自分は死にかけていたということを理解すると、途端に恐怖心がどっと沸き寄せてきたのだ。

「気にするなよ」

 エルネストはポンとレオンの頭に手を乗せると、再びイーヴの方へと目をやった。

「それより勝負は終わっていない。もう一回、気を引き締め直せよ」

 その目線の先には、ギラギラと目を光らせるグレッグと、静かに佇むイーヴの姿。

「たくさん邪魔者が来たな」
「たくさん……?」

 イーヴはたくさんと言っているが、レオンが見たところ応援に来てくれたのはエルネスト一人だけのはずだ。

「言葉通りだ、レオン。後ろを見ろ」

 エルネストがレオンに後ろを見るよう、くいっと手をうしろにやった。

「待たせましたわね、レオン!」

 ラクールの方から近づいてくる、いくつかの人影。その先頭には仲間を呼びに行ったはずのセリーヌの姿があった。さらにその後ろには……

「レオン、大丈夫だった?」
「……その様子だとレオンは無事のようだな」
「なにか色々と聞きたいことはたくさんありますが……話は後ですね」

 そこには応援に駆けつけるプリシス、ボーマン、ノエルの三人が、こちらに駆け寄って来るのが見えた。それはレオンが待ちに待った、頼れる仲間の到来だった。

「みんな……」

 レオンは久しぶりに体感した。仲間がいるという感覚。自分は一人じゃなく、いざという時には助け合う。窮地に追い込まれたからこそ分かる、その存在の大切さ。

「そうだね……」

 レオンはすっと振り返った。足の震えはもう無い。

「……お前ら、覚悟しろ!」

 仲間の力を得たその目の色は、明らかに今までのものと変わっていた。耳を怒り狂った猫のようにびりびりと奮い立たせながら、レオンは二人のネーデ人に向かってそう吼えたのだった。