71.第五章 第十九話




「よしみんな、ここならほとんど誰も来ないから大丈夫だ」

 そう言ってライゼルはゆっくりと扉を閉める。壁と接合された回転部分が軋み、同時にメキメキと木材の割れるような音もする。それはこの扉がほとんど使用されていないことを意味していた。

「このトイレは古くてね。あんまり誰も使いたがらないんだ……」
「たしかに、これはキツいわね………」

 プリシスが目を向けた先には、一枚岩と溝だけで構成されたごくごく単純な男性用の小便用トイレがあった。地球のように一人がひとつの便器を使うのではなく、全員がひとつの大きな便器を共有する古いスタイルのものである。掃除が行き届いていないのか、茶色い黄ばみがあちこちにあり、その不潔さにプリシスはむっと眉間にしわを寄せる。どおりで誰もここを使いたがらないわけである。



 プリシス、アシュトン、ノエル、ライゼルの四人は地下室を抜けだした後、見回りの兵士の目線に気を配りながら、慎重に城内を縫うよう移動した。先頭のライゼルは何度か衛兵に目撃されてしまったが、兵士の鎧を着ていたおかげで捕えられることはなかった。

 そしてその度にプリシスらは見つからないように身を隠した。安全に城内を進むためのこの布陣は、今のところ上手く機能している。

 地下室を出てからしばらくのあいだ、城の一階の様子を4人は窺った。すると予想していた以上に見回りの兵は多く、どこか人目につかないところで一旦作戦を練ろうという話になった。その場所としてライゼルが選択したのがこのトイレだというわけだ。

「うー、汚いなー。男子トイレなんて久々に入ったよー」
「えっ!? プリシス男子トイレに入ったことあるの!?」

 アシュトンは仰天したようプリシスに聞き返した。

「うん。ちっちゃいときにオヤジとねー」
「あ、あ、そうか、なるほどね………」
「……なに、アシュトン? なんか悪い?」
「えっ、ううん……ぜ、全然そんなことないよ!」

 先程からどうにもプリシスは機嫌が悪いようアシュトンは感じていた。やはりこのような場所は早急に出たいと、彼女はそう思っているのかもしれない。

「ま、この汚れも古いものだ。嗅いでみろ? ぜんぜん臭くないだろ?」

 その傍、ライゼルは身につけていた兜を外し、ふぅーっと大きく息をつく。たしかに悪臭はそこまで酷くないので、このようなオンボロ便所に居留まることもかろうじて我慢できた。しかしビジュアル的は最悪である。先述したように便器付近には黄ばみやカビの斑点、それ以外にもひび割れた洗面台の鏡や散乱したちり紙など、いらぬものがあちこちで目につく。メンバー唯一の女性であるプリシスにとって、それは否が応でも気になって気になって仕方なかったのだった。

「うーん……たしかに言われてみればそうなんだけど、見た目的にちょっとアレだからさ。……ってかアシュトン、あんた掃除とか得意でしょ? 騒動が片付いて城が落ち着いたら、片手間でここ綺麗にしてあげたらどう?」
「ええっ!?」
「いいじゃん。みんな喜んでくれるに違いないって!」
「で、でも僕たちにはこの後も任務が……」
「それならだいじょーぶ。宇宙船は近くにあるし、帰るときには迎えに来てあげるからさ」
「そ、そんなー。僕だけ置いてけぼりなんて!」
「ま、適材適所ってやつだよ、アシュトン!」
「ううー、だとしてもだよー!」

 アシュトンは困ったような顔つきでそんな声を漏らした。プリシスがアシュトンを振り回すという、そんな昔と変わらない光景にノエルもついくすくすと笑い声を立てた。

「ま、悪いが痴話話もほどほどにして、ちょっと話を聞いてくれないか?」

 兜の中は意外と蒸れるのだろうか、額の汗をハンカチで拭い終えたライゼルは、雑談をはじめだしたプリシスらに向かってそう言った。

「アギの部屋は7階にある。そのためには、まず何とかして4階まで行かなくちゃいけないんだ」
「え、なんで4階なの? 7階まで一気に行けばいいんじゃない?」

 プリシスはそうライゼルに聞き返す。

「1階にある階段から行けるのは4階までなのさ。この城は4階までが家来や使用人たち、それより上が王族や家臣、将軍の住居区に分かれている。で、そこに上がるための階段は4階からなんだ」
「へー、なるほど。フクザツなんだねー」

 つまり7階に行くためには、1階から4階まで階段で上がり、さらにそこから別の階段を使って昇らなければならないということだった。

「そしてその階段だけれども、とりあえず4階までいくのは城内に2つある」
「そーなんだ。で、どっちを使うの?」
「城の入り口の広間にある大階段はムリだね。あそこは広いから目につきやすい。だからもう一つの小さな階段で上がることにするよ」
「おっけ、徹底して人目につかないようにしなきゃいけないもんね」

 プリシスを含めアシュトンとノエルもライゼルの作戦に相槌を打った。

「まずはこのトイレを出てから右に進んで、突き当りを左に曲がる。そのまま真っすぐ行くと僕たちが出会った中庭に出るんだけど、そこまで行く途中に昇り階段がある。そこが………」
「……ちょ、ちょっと待って下さい、ライゼルさん?」

 ライゼルの話を聞いていたノエルは、ここで咄嗟にそう口を挟んだ。

「その通路は、もしかしてあの中庭の小屋からも見えたものですか?」
「ああ、そうだが?」
「だとしたら、ちょっと危なくないですか? あそこには僕たちの目から見ても、見張りの兵士が常に詰めていましたよ? 鎧を着ているライゼルさんならなんとかやり過ごせるかもしれませんが、僕たちはちょっと厳しいような気がします」

 ノエルたちが中庭の小屋からなかなか外に出れずにいたのも、その窓から見えた城内にはたくさんの兵士がいたからだ。そんな場所の近くを通るというライゼルの作戦は無謀だと、ノエルはそんな的確な意見を述べた。

「ああ、それならもう考えはある」

 だがライゼルはノエルの疑問に対し、自身ありげにそう答えたのだった。

「アシュトン。確か君のその竜、えっと……ギョロって名前だっけ? こいつは炎を吐けるんだったよね?」
「うん。そうだけれど……」
「なら、このトイレに火をつけてくれないか? 適当でいいからさ」
「……は、はい?」

 アシュトンはわけが分からないといった様子でライゼルに聞き返した。いきなり炎を吐けと名指しされたギョロも「呼んだ?」と言わんばかりに胴体を伸ばし、背中からひょこっとライゼルの方に姿を見せた。

「ちょっとしたボヤをここで起こすんだ」

 ライゼルはそう言いながら部屋の床を指で差した。

「みんなから見ても分かると思うけど、木でできたこの城は火事にすごく敏感なんだ。ボヤ程度でもたちまち大騒ぎになる。毎回ね」
「なるほど。……その騒ぎの隙を見て上の階に昇るんですね?」
「さすがノエル、察しがいいな。君の言うとおり、きっとみんなパニックになる。そうすればたとえ誰かに見つかったとしても、気にされはしないさ」
「……でも、火事なんか起こして城は大丈夫なんですか?」
「なに、この国の消防システムを舐めてもらっちゃ困るな。これくらいの火事なんか、すぐに鎮火されるよ。むしろこのトイレが炭になってくれれば、建て替えで綺麗にリフォームされるだろうからね。みんなそっちで喜ぶさ」

 得意満面にそう話すライゼル。ノエルたち三人は苦笑いでそんな彼の顔を眺めた。

「……ん、なんだ? 三人してまじまじと?」
「……ライゼル、実はあんた、ちょっと楽しんでるでしょ?」
「な、なに……!?」

 プリシスがそう言うと、ライゼルは目を大きく見開いてふるふると首を振った。

「そ、そんなことないぞ。我が国の命運がかかっているんだ。俺はいたって真剣だぞ、うん!」

 その取り乱したような態度に、三人はライゼルの本心を確信したのだった。このトイレに来てからというもの、やたらと彼の口数が増えたように思える。それにこれほどの短時間でアギの部屋まで辿り着くための作戦を練り、あわよくばトイレの改修も目論んでいるときた。

 中庭の小屋の中で隠れていた時には考えられもしなかったが、意外とこういう状況に怖気づくことのない性格なのかもしれない。あるいはこの状況が彼のほうを変えたのかもしれない。

「……ってなわけで、アシュトン!」
「は、はいっ!」
「ほらはやく! ボワっとやっちゃってくれ!」

 ライゼルは兜をスポっとかぶり直し、再出発の準備を整えながらアシュトンにそう命じた。ボワっとやるとはこの場合、トイレに引火させろという意味なのだろう。

「ちょ、ちょっとまって。心の準備が………」

 何の躊躇もなく城を燃やせと言い切るライゼルにアシュトンは戸惑い、もう少し時間がほしいと頼んだ。しかし……



――――ゴウッ………!!――――



 その言葉よりも早く、彼の背中のギョロは大きく口を開き、そこから火炎放射器のように昂る炎をまき散らした。

「うわっ!?」
「ギャフーーー!!」
「こ、こらっ! ギョロ! 何勝手に炎を吐いてんだよ!?」
「ギャフ♪ ギャフ♪」

 アシュトンはギョロを叱りつけようとしたが、この赤竜は満面の笑みで喉を鳴らしていた。そんなギョロにウルルンは羨ましそうな視線を送りつけている。

「うひゃー! ギョロが炎吐いたとこ、なんだか久しぶりに見た!」
「……そういえば、二匹とも最近吐いてなかったね……………」

 懐かしむようなプリシスの言葉を聞いて、アシュトンは背中の双頭竜の出番がここ最近めっきり減ってしまっていたことを思い出した。二匹とも得意のブレスを吐きたくて吐きたくて仕方なかったのだろう。久々に巡ってきたその機会に、ギョロはついつい先走ってしまったのである。

「おい、ぐずぐずしている暇はないぞ。はやくここから出ろ!」
「そ、そうだねっ!!」

 気合いと共に放たれたギョロの炎によって、既に個室の一つは完全に焼け落ちかけ、火柱はメラメラと音を立てながらさらに大きくなっていく。赤々とした熱気はこの場の空気を歪め、さすがにこれ以上このトイレに居続けるのは危険だった。

「大変だーーーー! トイレで火事だーーーっ!!」

 アシュトンたちが廊下に出ると、兵士の格好をしたライゼルは大声でそう叫んだ。

「誰か、はやく消火を手伝ってくれー! どんどん炎が大きくなって、手がつけられないんだー!」

「……な、それは本当か!?」

 すると、先ほどライゼルの言っていたとおり、あちこちから続々と兵士がこの火災現場に向けて駆けつけてきた。緊張しているのか、その表情はみな真剣そのものだった。

「おいお前、大丈夫か?」
「ああ。一応、中に誰も人がいないことは確認してある。それより一刻もはやく鎮火しないと、大変なことになるぞ!」

 最初にこの火災現場へと駆けつけてきた兵士に、ライゼルは迫真の演技でそう答えた。

「ああ、心配するな。他の部下全員に、急いで川の水を汲んでくるよう命じてきた。じきに火は収まるだろう」
「わかった。それじゃこっちは念のため、上の階の人間に応援を要請してくる」
「おお、頼んだ。人手はあるに越したことはないからな」

 こうして話している間にも、いっぱいに水を蓄えた桶を担いだ兵士たちがぞくぞくと集結してきた。どうやら飲料用の井戸水では効率が悪いらしく、近くを流れる河川から人力で消火用水を運ぶことになっているらしい。一致団結して水を送り込むその手際の良さを見るに、普段から相当訓練されているのであろう。

「わかった。おそらくこの程度なら大丈夫だろうが、念のためしっかり連絡してくるよ」
「了解した。ここは任せておけ!」
「ああ、頑張ってくれ!」

 ライゼルはそう言い残すと、颯爽と廊下の向こうに走りだした。その方向には先ほど彼が話していた4階への階段がある。黙ってこの火事現場を見ていたプリシスらも、それに遅れないようライゼルの後を追っていったのだった。





 火災の現場から離れたときもそうだったが、この城の人間は火事となると目の色がまるで変わるらしい。やはり燃えやすい建物ということもあり、皆がみなそれしか見えていない様子だった。

 しかし、それは逆にプリシスたちにとってラッキーなこと。おかげで自分たちという部外者が城内をうろうろしているところを兵士に見つかっても、何の疑問一つ抱かれなかった。正しくは抱かれるほどの余裕がないと言うべきであろうか。この調子で4人は楽々、4階まで階段を昇りきることができたのだった。

 さて、さすがに4階まで来ると、火事騒ぎはそこまで大きくはなかった。「小さい火事があったんだと」という会話が呑気に行われているくらいだ。おそらく階下の兵士たちの鎮火能力には全幅の信頼が置かれているのだろう。ライゼルが何の躊躇いもなく火事を起こせと命じたのも、彼がここ以上の階層に住む王族だという点からして納得のいく話である。

 だが、そうだといっても油断はしていられない。なにせここから先は火事によるパニックがない、すなわち見つかると即座に賊者扱いされるわけである。兵士の密度は1階に比べると少ないが、それでも最低限の緊張感は維持していく必要があった。

「この向こうが7階に続く階段だ」

 ライゼルはそう言いながら、城の吹き抜けにかかる橋を渡った。下のほうでは相変わらず火事騒ぎが続いており、煙の臭いがプリシスらの鼻をついた。いくら安全が保証されているとはいえ、この階の人間はよくこんな状況でも平静でいられるものだなとアシュトンは首を傾げるのだった。

「さて、ここから先は作戦どおり強行突破する。もし兵士に見つかった時は、容赦なく攻撃してくれ。あ、絶対に殺さないよう頼むよ。これでも一応、俺の国の人間なんだからさ」
「ったく、わがままなんだからー!」

 足早なライゼルの背後より、プリシスは目を細めながらそう言葉を投げかけた。そのときそんな彼女の隣から、アシュトンが宥めるようにプリシスの背中をそっとたたく。

「まぁまぁプリシス。大人数で来られなければ急所を外すくらい、訳ないからさ」
「むー、それならいいんだけどさー」
「大丈夫、まかせてよ! 無罪の兵士を誰も死なせはしないさ」
「へっ、う、うん………」

 真摯なアシュトンの言葉を受けたプリシスは、ついつい彼から視線を逸らせる。

「……そうだよね、ここの人もアギの命令で仕方なく王様を軟禁しているんだし……」
「うん。だから平和にこの事件を終わらせよう!」

 アシュトンはそう言い、走るプリシスの前へとせせり出た。自分の言った一言で士気が高まったのか、プリシスにはアシュトンの姿がいつにも増して頼もしく映ったのだった。

「おっけーおっけー……」

 そしてそんな彼の真後をついていくように走りながら、プリシスは小声でそう呟いた。



 4人が吹き抜けを渡りきると、壁沿いに上階へ続く階段が現れた。それを登る途中の窓からは、先日の結婚式でヘイデンとミントが登場したテラスが見える。あの日はとても高い場所に見えたこのテラスも、実は階層に換算すると5階程度の場所にあった。周りに何もないジルハルトの街では、錯覚してしまうくらい天高く見えてしまったのであろう。

 一気に7階まで登りきって廊下へ出ると、そこには2人ほどの兵士が立ちすくんでいた。こちらの姿に驚いたのだろうか。だがアシュトンとノエルはそんな彼らに向け、間髪おかず攻撃技を放つ。

「それっ、ノーザンクロス!」
「ウインドブレイド!」

 放たれた氷塊と鎌鼬(かまいたち)が一瞬で兵士たちに襲いかかる。当然彼らはこの奇襲を避けるなどできるはずもなく、二人とも直撃を食らってそのまま気を失ったのだった。

「ありがとう、アシュトン、ノエル!」

 ライゼルは気絶した兵士たちを通りざまに目をやる。攻撃を軽くに留めてくれた二人に感謝すると、彼はさらに先を急ぐよう走るペースを上げた。

「アギの部屋はもうすぐそこだ! ほら、あそこ!」

 ライゼルはそう言うと、廊下の奥に見える赤色の両扉を指さしたのであった。





「アギ! そこまでだ!」

 バーンと音を立て乱暴に押し開いた扉の先には、大きな広間が映しだされた。赤生地に金糸の刺繍入り絨毯が木目色の床に敷き詰められ、趣味なのだろうかたくさんの絵画が壁にびっしりと吊るされている。今まで見てきたシンプルな城内の様子とは明らかに雰囲気が異なるのを、プリシスたちは部屋に突入した瞬間に嗅ぎとった。

 そしてその部屋の左脇にある小窓から外を眺めていた一人の人物が、扉の開く音に驚いたようライゼルら4人のほうを振り返った。短い黒髪に緑色の軍服を身にまとったこの男こそが、ヘイデン王子のクーデター計画に協力したアギ将軍だった。

「な、な、なんだ!? 貴様らは!?」
「ふん! お前の野望もそこまでだ!」

 吃驚仰天するアギに、ライゼルは自分の兜を勢い良く脱ぎ捨てて正体を明かした。その姿を見たアギは、たちまち顔がひきつってゆく。

「お、お前は……ライゼル……王子か………!?」
「ああ、そうさ!」
「な、なぜお前がここに……!?」
「残念だったな、アギ。お前が俺を捕まえる前に、俺がお前を捕まえてやる! 覚悟しろ!」

 ライゼルは腰に備えられていた剣を両手で抜き出し、その鋒をアギへと向けた。

「お前にひとつ聞きたいことがある」
「………な、なんだ!?」
「……なぜ兄さんに手を貸した?」
「…………」
「おい、質問に答えろ!」
「………ふ、ふふふ……ふはははは………………!!」

 探し求めていたライゼルの登場にはじめは驚いていたアギだったが、早くも落ち着きを取り戻したかのように嘲笑している。そして彼もまた腰のベルトにぶら下がっていた鞘から細身のレイピアを片手で取り出すと、目の前でヒュンヒュンと十字を切るようにそれを振り回し、ぴしっとライゼルのほうに向けたのだった。

「そんなこと、お前に言ってやる必要もない。なぜなら貴様のその勇気も、いまここで塵と化すからだ」
「ぐっ……俺に逆らうというのか! 父上をはじめ、国の者が黙っていないぞ!」
「ふん。すでにこの城はお前たちのものではない。私が忠誠を誓うのはヘイデン王子ただ一人」
「……支配しようというのか? わが国を」
「……まぁ、半分当たりだな」

 アギは含み笑いを浮かべながら、さらに話を続けた。

「だが、私とヘイデン王子の考えはそんな小さなことではない」
「……なに、どういうことだ!?」

 それを聞いたライゼルは強い口調でそう聞き返した。

「まさか、キーサイド王国も手中にするつもりか、アギ!?」
「ふははは……それ以上は答えられないな。知りたければお前の兄上にでも聞け」
「くっ………」
「だが、まずはこの私に勝てたらの話だがな!」

 アギはその言葉と同時に、レイピアをライゼル目掛けて一直線に突き出した。

「うわっ……!」

 鎧の隙間を狙って放たれた刺突を、ライゼルはなんとか逸らせる。おかげでアギのレイピアは鈍い音を立てて鎧の腹部を掠る程度で済んでくれたが、その勢いからして彼がライゼルの命を奪わんとしていることは明らかだった。

「ライゼル、あぶない!」

 すると、これまで黙って二人の様子を見ていたアシュトンが咄嗟に助けに入ろうとした。手にしていた双剣をアギに向けようとしたが、それよりも先にライゼルの声が彼の動きを止めた。

「アシュトン! すまないが邪魔しないでくれ!」
「ライゼル……?」
「これは俺たち王家の問題なんだ。だから俺が決着をつける!」
「で、でも………」
「いいから任せてくれ!」
「わ、わかったよ………」

 ライゼルのその言葉を聞いたアシュトン、そして彼のみならず、プリシスとノエルも黙って彼を見守ることにした。彼は彼なりのけじめを、ここでつけるつもりなのだろう。

「いつもの訓練とは違うぞ、ライゼル。この決闘に負ければ、それはすなわちお前の死を意味する」
「わかっているさ、そんなこと……」
「この場で喧嘩を売ってきたのはお前のほうだ。これは正当防衛として処理させてもらうからな」

 アギはまたライゼルをレイピアで攻撃した。ライゼルは両手に握りしめた剣でそれを薙ぎ払うが、そのたびにアギは何度も何度もしつこく攻撃を繰り返す。

「ほらほらどうした? 避けてばかりでは私には勝てんぞ」
「くそっ………」

 波状攻撃を受けるライゼルはだんだんと集中力を失い、アギの攻撃に対する応戦が鈍っていく。そしてそれを見透かしたかのように、剣の遠心力でバランスを崩したライゼルの左腕にアギのレイピアが一閃した。

「ぐわぁぁぁぁぁ…………!!」

 ライゼルの唸るような大声が部屋じゅうに響いた。剣を手から落とし、突き抜かれた左腕を抑えながら崩れ落ちる。威勢を失った彼の側には、ぽたぽたと真っ赤な鮮血が流れ落ちていた。

「ま、こんなもんだな」
「ア……ギ………………」

 アギはそんなライゼルを見下すよう、つかつかと彼のもとに歩み寄ってきた。冷酷な視線を浮かべるアギを、ライゼルは傷ついてもなお睨み続けていた。それは追い詰められても決して服従するつもりはないという、彼の強い意思の表れだった。

「弱肉強食だ。残念だが死んでもらうぞ」

 アギは抑揚のない声でそう言うと、光るレイピアをぐいっと体の後ろに引いた。これは突き攻撃を繰り出す構えだ。

「ではさらばだ、ライゼル王子。これからの国は、ヘイデン王子と私にお任せを……」
「くっ………」

 差し向けの言葉を添えてとどめを刺さんとするアギを前に、ライゼルは覚悟を決めたかのように目を閉じた。


――――ギィン………!!――――



 金属が欠けるような音が、部屋一面に響いた。

「な、なにをする、貴様………?」
「……ごめんライゼル。やっぱ黙って見ているだけなんてできないよ。僕の我慢もそろそろ限界だしね」

 アギが力を込めたレイピアは、別方向から差し向けられた刃によって方向を逸らされてしまう。まるで体を開くような体制になったアギの目には、自分を妨害した一人の青年の姿が映っていた。

「お前の相手はこの僕がする!」

 アシュトンは両手に装備していた聖剣パスティオンのうち、アギのレイピアを薙ぎ払ったほうで一度空を切った。“ぶん”という振動音とともに、彼のバンダナ上で茶色の髪が揺れた。

「フェアリーヒール!」

 そして彼の後ろでは、プリシスがライゼルを安全な部屋の隅まで引きずって移動させ、そこでノエルが手際よく回復紋章をかけていた。地面に残る生々しい血の跡を見るに、おそらく彼は瀕死の傷を負っている。最上位の回復魔法を選択したノエルはライゼルの傷口に両手を添え、ひたすらに詠唱に集中していた。

「くっ、余計な真似を!」

 ライゼルが回復を受けていることは、その雰囲気からして察することができたのだろう。一変した状況に動揺したアギは、すぐさまライゼルの元へ駆け寄ろうとした。

「させない! お前は僕が倒す!」

 だが、アシュトンはそんなアギに向けて剣を再度振りかざした。ノエルのいる方向からは「がんばって! アシュトン!」というプリシスの叫び声も聞こえる。

「ぐっ………くそっ……………」
「それっ!」

 レイピアでアギはその攻撃を受け止めたが、アシュトンのもう片方の剣が彼に襲いかかった。

 すでにレイピアで片方の剣を受け止めているアギは、この攻撃をまともに防ぐことができないと考えたのだろう。切羽詰まりながらも、彼はなんとかアシュトンの攻撃を避けようと体を反らせた。

 だが、アシュトンはアギがこの行動を取ることも予測していた。この二撃目は単なるいつもの剣激ではなかった。彼の手の甲には、黄緑色の紋章がじんわりと浮かび上がっていたのだった。

「ハリケーンスラッシュ!」

 アシュトンが叫ぶと同時に、両方の剣からそれ自身を中心に巻き込むような竜巻が轟音を上げて発生した。紋章剣による風圧の力は圧倒的で、アギは簡単に宙へと舞い上がってしまう。そのまま彼方へと吹き飛ばされ、彼のコレクションである絵画の飾られた壁に背中から激突したのであった。

「かはっ…………」
「いまだ、たのむよウルルン!」

 強く体を打ち付けたせいで呼吸が一瞬止まったアギだったが、アシュトンは攻撃の手を緩めはしなかった。彼が背中の竜に呼びかけると、ウルルンはギラリと光る牙を見せつけるように大きく口を開き、そこから白銀色の強烈な吹雪をアギめがけて噴射したのだった。

「あいつの手と足を狙って!」
「フギャーーー!」

 ウルルンのブレスは緻密にコントロールされており、アシュトンの要求どおりアギの両手両腕は氷漬けになってしまった。その氷は壁と一体化し、まるでアギは四肢を束縛されたような形になる。絶対に逃げられないよう、アシュトンは徹底的にアギを拘束したのであった。

「弱肉強食って言ったっけ? 男に二言はないよね?」

 そのアシュトンの捨て台詞も、気を失ってしまったアギには届いていないだろう。彼の心臓に手を当て、生きていることを確認したアシュトンは息を吐きながら剣を鞘にしまった。

「すごーい! 一瞬だったね、アシュトン!」

 すると戦闘が終わるのを見計らったかのように後ろからやって来たプリシスは、笑顔で彼にそう声をかけた。感心というより嬉しいという気持ち、そんな思いが彼女のその表情には表れていた。

「いや、相手がよかったよ。レイピアは不意打ちの突き攻撃にさえ気をつければ、二刀流がとっても有利だからね」
「そーなんだ。でもさ、それ抜きにしてもアシュトン圧倒的だったじゃん! さっすがだよー!」
「いやー、それほどでもー……」
「あっ、でもそうやってすぐ調子にのるところは、ぜんぜん変わってないね!」
「うっ…………」

 プリシスに褒められたと思いきや最後に落とされると、照れ顔だったアシュトンは困ったように頬を掻くのだった。

「アシュトン……!」
「ライゼル? 大丈夫なのかい?」
「ああ。ノエルのおかげでもう傷は塞がったよ」

 プリシスから少し遅れ、怪我をしていないほうの腕でノエルの肩を借りながらライゼルが現れた。

「ごめん。僕は君とアギの戦いを邪魔して……」
「いや。俺のほうこそ我儘言ってすまなかった。はじめから一緒に戦っていれば、みんなに迷惑かけることもなかっただろうに……」
「ライゼル……」
「正直、君たち三人を見くびっていたよ。まさかこんなに強いとは思ってもいなかった。悪かったな……」

 ライゼルはアシュトンにそう言うと、次はお前だと言わんばかりの険しい表情でアギのもとへと向かっていった。

「おい起きろ、アギ!」

 ライゼルはノエルから腕を離すと、そのままその手でアギの頬を軽くパンパンと叩いた。すると、ぐったりとしていたアギの瞼がうっすらと開き、同時にうめくような声が彼の喉奥から鳴り響いた。

「…………うう…………………」
「目がさめたか?」
「ライゼル……王子…………」
「さて、これからお前には、聞かなくてはいけないことがたくさんあるからな」
「………………」
「おい、何か言ったらどうなんだ?」
「………………」
「どうした? それともここで黙って死ぬか? あ?」
「……………ちっ」

 目が覚めてからはしばらく無表情で黙秘を続けていたアギも、「死ぬか?」というライゼルの脅しの一言には逆らえなかったようであり、悔しそうに舌打ちをしながら頭を垂れたのであった。

 戦いで荒れた部屋。まだ戦いの臭いが消えやらない中で、この国に起こったことを目の前の男からひとつ残さず聞かせてもらう。これから行うことはまるで尋問のようで、プリシスらは正直あまり気がすすまなかった。

 だが一方で、この国の未来を第一に考えるライゼルにとっては重要なことだ。彼も本当はこんなことなど望んでいないのだろうが、尋問役を引き受けられるのは彼以外にいない。そして後ろめたいながらも、プリシスたちはこれから行われるであろうそのやり取りをしっかりと聞き、この国の異変の根幹を突き止めなければならない。

「それじゃあ、はじめの質問だ」

 それぞれが複雑な思いをそれぞれが抱えるなか、ライゼルの重い一言によってアギに対する質問責めは開始されたのだった。