連載長編小説
56.第五章 第4話
旅館“Moonlight Blues”を、昇りたての朝日の光がぼんやりと映し出す。ここフーラル共和国の首都ジルハルトは明け方を迎えていた。それも、ただの明け方ではない。国家にとって、そして国民にとって最も重要な一日の始まりとも言える朝だった。
まだ早い時間だというのに、既に外には多くの人影が伺えた。それは街中に配備された兵士達であり、昨日に比べて格段にその数も多い。
街の見張りにここまで力を入れる理由。それは結婚式が多くの国民でごった返すと予想されるために、その整理をしたり犯罪を予防する必要があるからである。
クロードは少しずつ賑やかになっていく窓の外の様子に気がつき、自然に夢から目を覚ました。大きな欠伸を立てながら、もう朝になってしまったということ、そして結婚式当日が訪れたことに気がつくと、ゆっくりと扉を開いて部屋の外に出た。
廊下の先にある洗面台に着くと、そこには既に多くの客が顔を洗ったり、あるいは歯を磨いていたりしていた。順番待ちの列には何人かの男が並んでいる。どうやらすぐには身支度をさせてはもらえないようであり、クロードは仕方なく列の最後尾で自分の番を待つことにしたのだった。
するとしばらくしてから、アシュトンやレナ、ボーマンなど他の仲間達が、次から次へとこの場所にやって来る。どうやら同じくらいの頃合に目が覚めたようであり、列が近い者どうしで朝の挨拶を交わし始めるのだった。
「おはよう、アシュトン」
「ん。おはよう、クロード」
先に支度を終え、顔を拭きながら洗面所を立ち去ろうとしたクロードは、ちょうど順番を待っていたアシュトンに声をかけた。
アシュトンはまだ相当眠たげな顔をしている。その背中から顔を覗かせるギョロに至っては目が半開き状態であり、起きているのか寝ているのか分からない。長髪の彼は寝癖もけっこう激しいため、準備にはしばらく時間がかかりそうである。
「先に下の食堂に行ってるから、できるだけ早く来てくれ」
「うん、わかった……」
クロードはアシュトンにそう一声かけると、洗面用具をしまうため再び自室に戻るのだった。
この旅館の1階はロビー、3階と4階は客間に割り当てられており、食堂は2階ほぼ全てのスペースを占めていた。夕食の際は仕切り板でグループごとに区切られていたこの場所も、朝はそういったものが全て取り払われていたため、昨夜とは異なり少し開放的な感じがクロードにはした。
たくさんの窓から差し込む朝日がテーブルを照らしていて、とても明るい。朝食はバイキング形式のため、籠いっぱいに盛られたパンやジャム瓶の前には、トレイを手にした客が群がっている。
思った以上に宿泊客が多いことに驚きながらも、クロードは人々の話し声や食器の音で騒がしい食堂の中、先に来ている仲間たちを探すべく全体的に辺りを見渡した。
「クロードー! こっちよー!」
だがクロードが誰かを見つけるより先に、自分を呼ぶ大きな声が奥のほうから聞こえてきたのだった。それに反応して声が聞こえた方向を眺めると、クロードより先に目を覚ましていたチサト、ノエル、レオン、そしてディアスの4人が、大きなテーブルを占拠して座っていたのだった。
声を出していたのはどうやらチサトのようであり、彼女はこちらを向きながら両手を高々と振っている。チサトの隣にはディアス。そしてその向かいではノエルとレオンが静かに皿の上の食べ物を口に運んでいる。
「先に場所をとっておいてくれてありがとう。みんな早いなぁ」
呼ばれるがままにテーブルに着いたクロードは、レオンとノエルの間の席に座った。
「俺が3時間前には目を覚ましていたからな」
「そうそう。ディアスがずっと前から、私たち全員の席を取っておいてくれたのよ。ちなみに私もさっき来たところ」
チサトが「てへっ」と舌を出しながら頭を掻く。
「そうか、ディアスが……」
クロードはそう呟いてディアスの方を見た。彼は既に食事を済ましており、退屈そうにぐるぐると肩を回したりして体をほぐしている最中だった。
いま気がついたことだが、自分達が陣取っている長机の椅子には、剣や皮袋といったディアスの私用品がちょうど人数分だけ置かれていた。これなら他の誰かに席を奪われる心配は無い。ディアスの怖そうな顔を見れば、文句を言う輩もいないだろう。
仲間達の間では常に誰よりも早起きだったディアス。剣士の朝は早いらしく、彼は朝日と同時に目を覚ます。そのぶん夜は当然早く、昨夜もクロード達が談話していた頃には既に剣の手入れを済まし、眠りに就いていたことであろう。
かつての彼のことを考えると、クロードはディアスが仲間のためにこう何かをしてくれる度に、なんだか嬉しい気分になるのだった。この気持ちには、先日の武具大会団体戦での思い入れもあるのだろう。
「何をしている。早く飯を取りに行ったらどうだ?」
「うん、今から行くよ」
「ならば無くならないうちに早く行け。……にしても、まったく他の奴らは一体いつまで寝ているつもりだ? 時間が無くなるぞ?」
「はは………」
寝坊の筆頭候補であるプリシスとセリーヌは、あと小一時間ほどしないと起きてこないであろう。二人の会話を小耳にしながら果物を食べていたレオンも同感だったのか、一人で大きな溜め息をついている。
クロードは苦笑いを浮かべながら、バイキングの列へと並びに行った。するとアシュトンとレナとボーマンの3人が、ちょうど食堂に入ってくる光景が目に入った。だが、案の定さきほど述べた寝ぼすけ二人の姿はない。クロードは今日の予定が狂わないかどうか、早くも心配になるのであった。
結局全員が集合したのは、クロードが食堂に到着してから一時間ほど後になってしまった。チサトがプリシスを起こしに行っていなければ、もう少しこの時間も遅くなったであろう。
10人全員が今、食堂のテーブルに集結している。客入りは相変わらず多いが、着々とその面々は入れ替わっていった。既にここを出て行った客たちはそれぞれの部屋に戻り、結婚式会場へ出かける支度をそろそろ始めているのだろう。
こちらもすぐに出発したいところだが、生憎まだセリーヌとプリシスが朝食をたいらげている途中だった。寝坊した身分でありながら、しっかりと食べるものは食べるらしい。
「ふぁぁあ………。そんなに急がなくても、まだまだ結婚式まで時間あるじゃん!」
目を擦りながらパンをもぐつくプリシス。結婚式は昼過ぎだと聞かされていたために、もう少し眠れるものだと思っていたのだろう。
「まだ時間があるなら、朝からここまで食堂は混まないだろう?」
ディアスがそんなプリシスに目を細めながら言う。
「これだけたくさんの人が来るのであれば、当然会場も大混雑する。早めに行って披露宴がよく見える場所を確保するべきだということは、普通に考えて分かると思うが……」
「ディアスったら、あたしがそんなところまで頭が回るわけないじゃん。昨日からずーーーーっと歩きっぱなしで、めちゃくちゃ疲れてるってのにさ?」
「それはここにいる全員同じだ」
ディアスがそう言うとプリシスはムッとして何かを言いかけたが、ここでクロードが素早く口を挟む。
「後から文句言われちゃ嫌だから今言っておくけど、今日もずっと立ちっぱなしの一日になると思うよ。一般観衆の僕達に、座るための席なんか用意されてないに決まってるからね。そこのところ、ちゃんと覚悟しておいてくれよ?」
「え゛ーーーーーーーー! やだよそんなのぉ!」
「わがまま言わずにちょっとくらい我慢してくれ、プリシス」
「もうっ! あたしの足は既に筋肉痛だってのにさぁ……」
そう言うとプリシスは顔を渋らせるのだった。
「っていうかさ、そもそもあたし達が結婚式を見に行く必要性ってあるわけ? 何かが起こるかもしれないって言うけどさ、絶対に起こるとは限らないじゃん!」
「そーだな。でもだからこそ、行ってみないと分からないってもんだろ? 昨日もクロードが言ってたじゃねえか?」
ボーマンが黒いコーヒーをずずっと啜りながら手短に説明した。
「もともとネーデ人なんかを追っかけるアテなんか何にも無いんだ。手当たりしだいに首突っ込んでくしかないんだよ。こういう行き当たりばったりってのは、お前の得意分野だろ?」
それを聞くとプリシスは少し不機嫌そうに頬をふくらませたが、ボーマンの言葉にも一理あると思ったようでもある。
「ちぇっ。なんか上手く説得されちゃったな……」
そう呟くと、彼女は残りのパンを一気に口へと詰め込んだ。
「さーさー。それならさっさと行こうよ、さっさとさ……」
プリシスは手に残ったパン屑を払いながら席を立つと、それに呼応するかのように他の仲間達もガタガタを椅子を離れはじめる。
「やれやれ、ようやくか……」
ディアスも呆れたようにそう呟きながら、ゆっくりと自分の荷物を手にした。時間が切羽詰まっていることにようやくプリシスが気づいてくれたのか、それとも単に彼女がヤケになっただけなのかは分からないが、とりあえず出発することができて何よりだとディアスは思うのであった。
「あんまり細かいこと気にしちゃだめよ、ディアス」
そんな彼にレナが気遣いの声をかける。
「あの子の寝坊をいちいち怒っていたらキリがないもの」
「ああ、どうやらそのようだな……」
ディアスはレナにそう言い残すと、食道の出口までつかつかと歩いて行った。
「ま、いつものことだからね、プリシスは」
「ははは………」
さすが普段から苦労してるだけはあるなと、クロードはそんなレナを気の毒に思うのであった。
街は既に多くの人でごった返していた。国中の人々、もしかしたら他国の人間も居るかもしれないが、それだけたくさんの人が一つの街に集まればこれほど凄まじい人だかりができるのだなと、クロード達はついつい感心させられる。
宿を後にした10人は、昨日座り込んで話をしたあの路上階段の場所に戻ってきた。そこからもう少し街の中心方向に、披露宴の会場はある。
大声をあげる行商人や、愉快な音楽を奏でる旅の楽団。街中には目を楽しましてくれるものがたくさんあるため、よそ見をしたくなるものだがそうはいかなかった。少しでも仲間を見失おうものなら、たちまちこの混雑の中で迷子になってしまうことだろう。
あまり色々なことを考える余裕も無く、はぐれないようにただひたすら歩く。そうして宿を出てから30分ほどたった頃、ようやく目的地である披露宴会場に一行は到着したのだった。
「うわ、広っ!」
「そして、ものすごい人だかりですわね……」
いわゆる城前公園と呼ばれる場所で、プリシスとセリーヌが目を見開いて驚く。この街に来たときには遠くのほうに見えた木造の城が、今は目の前で壮大に聳えていた。
昨日とは違い、あちこちから赤と金の豪華な長旗が垂れ下がっている。そこには大型の猛禽類をモチーフにしたような黒塗りのイラストが大きく刺繍されており、この巨大な鳥の紋章こそがこのフーラル王国の国旗なのだろう。
城には大きなテラスが見えた。ちょうど城のてっぺんから数えて3分の1くらいの箇所にあるテラスの扉には豪華な緞帳がかかっており、その周りは花束や宝石などで豪華に装飾されていた。テラスの床には深い緑色の絨毯が敷かれており、木の色と上手く調和している。
恐らくはここから新郎新婦が姿を現すことになっているのだろう。そうであれば、自分達はあの場所がもっとよく見える位置に移動するべきだとクロードは考えた。
今の公園から城門に続く道は閉鎖されており、かわりにクロード達が通ってきたのを含め三方向に伸びている道からは続々と見物客が溢れ出てきていた。
この群集に先を越される前に、あのテラスがよく見える場所へ行かなければならない。そう思ったクロードは指示するように大きな声を出した。
「みんな、急いでできるだけ前のほうに行こう! 城に近い場所のほうがよく見えそうだ!」
公園は傾斜や段差一つ無い平坦な場所だった。少しでも小高い場所があればよかったのだが、見渡す限りそのような場所は無さそうだった。
近くの建物の屋上へ向かうことも考えたが、先ほど屋根の上に登った人間が兵士に注意され、しぶしぶ降ろされている光景をクロードは目にしていた。高い位置にある窓には城を眺める住人たちの顔がぎっしりと詰まっており、そういった場所からの見物ももはや不可能だと考えられる。
クロードの指示通り、とりあえず一行は群衆を?き分けるように前へと進み始める。だが、それは簡単なことではなかった。
「かーっ。全っ然進んでる気がしねぇな、こりゃ」
「前へ、って言っても、これ以上進むのは結構限界があるような………」
「ボーマン! アシュトン! こういうのは根性で乗り切るのよ! ほら!」
次から次へと流れ込むたくさんの人波に圧倒されるボーマンと、少し遠慮がちでなかなか次の一歩が踏み出すことのできないアシュトン。そんな彼らを率いるように、チサトは人だかりを割いてぐいぐいと前に進んでいった。
「さすがチサトさん。普段から記者の仕事をやっているだけはあるわね」
「そうだね。っととと……」
レナとクロードも人混みに悪戦苦闘している。ぶつかったり体制を崩されたりと、なかなかチサトみたいに上手く前へは進めない。
「っていうか、結構みんなはぐれちゃってるわよね。大丈夫かしら……?」
レナが後ろを振り返ると、仲間達の姿は誰一人として見当たらなかった。前方に見えていたチサト、アシュトン、ボーマンの3人とも少しずつ距離が開いてきている。
体力がないプリシスやセリーヌは、きっと後ろのほうで人ごみに巻き込まれているに違いない。下手するともう前進することさえ諦め、どこかで人休みしているのかもしれない。
「後ろのほうでも見えないことはないし、一人でいなけりゃ大丈夫だよ。いざとなれば通信機もちゃんとあるから、後でどこかに集合するよう連絡すればいいしね」
「そうね。あぁ、それにしてもほんとにすごい人だわ……」
「正直、もうこれ以上は無理だよね」
そう呟きあうクロードとレナの前後は、まるで押しくらまんじゅうをしているかのようにぎゅうぎゅう詰めだった。割り込めるスペースも無く、ここより前へは進めそうにもなかった。
人の流れも若干落ち着いてきた感はある。観客の流入も減って来たようであり、皆それぞれのベストポジションへと留まり始めたのであろう。
未開惑星でよくこれだけの人員を動員できたなと、クロードは少し感心していた。人心の統制はなかなか達成することが難しいという歴史上の通説があるが、その理屈からいくとここフーラル共和国は相当に優れた文明を有していると言ってもいいだろう。
だが任務を行うという観点から話をすると、このことはむしろ都合が悪い。人が多すぎると、目的のネーデ人を見つけることも困難であるからだ。
「あ、クロード見て!」
レナが陽射し避けに額に手を当て、遠くを見つめながらクロードにそう言った。それと同時に観客のあちこちから大きな歓声が巻き起こる。クロードもそれに合わせるよう、急いで城のテラスへと焦点を合わせた。
今までまっすぐだったテラスの緞帳が、ひらりと捲れた。そしてそこからは正装着を身に纏った男女が4人、一人ずつゆっくりと現れ始めたのだった。
緞帳をくぐったその男女は、二人ずつテラスの左右へと分かれてゆく。周囲があまり盛り上っていないところを見るに、この4人の中に今日の主役であるヘイデン王子とミント姫は居ないようである。
「この次に出てくるのかしらね?」
レナがクロードに尋ねる。
「だろうね。もうちょっとしたら来ると思うよ」
この4人は王子と王女の盛り立て役か、もしくは護衛の兵士といったところだろう。「まだかー!」などと野次が飛ぶ中、その4人の中の一人、クロードから見て最もテラスの左側に居た人物が、なにか大きな太鼓のようなものを力強く鳴らした。
――――ドウン! ドウン!――――
二回鳴らされた重低音は、奏者から公園一面まで地鳴りのように波紋した。手に持つことができるサイズの太鼓から、群衆に届くほどの大音量が出るとは思わなかった。クロードとレナは、全身を伝わった振動に「わっ!」と声を漏らすのであった。
そんな太鼓の音が響きはじめると、群集は一転してぴたりと静まり返った。これは披露宴の開始、すなわちこのフーラル共和国のヘイデン王子と、キーサイド王国のミント姫の入場を表しているのであろう。
独特の緊張が会場全体に広がる中、今度はテラスの最も右側に居る人物が大きく声を張り上げた。
「皆の衆!」
それは腹の底から届いているかのような力強い声であり、マイクなどの拡声装置を使っていないにもかかわらず、クロード達にははっきりと聞き取ることができた。
「これより、我がフーラル共和国次代の国王ヘイデン王子と、次期王妃となられることになった隣国キーサイド王国の姫君であるミント姫を、我が国民の前をもって祝福する。皆しっかりと目を開かれよ。そして盛大なる声援と拍手を送られよ」
言い終わると同時に、また太鼓が三回四回と繰り返し鳴らされた。
いよいよ新郎新婦の入場が始まる。言葉に出来ないような高揚感が、全くこの国とは関係の無いクロードにまでも感じられた。
こんな気分を味わえる。それだけでもわざわざこの場所まで足を運んだ甲斐があったなと、クロードは噛み締めるようしみじみと思った。
そして次の瞬間、じらすようにゆっくりとテラスの緞帳が捲れ上がり始めた。それを目にした観衆は爆発させるかのよう、一斉に声を張り上げだすのであった。
緞帳の奥から二人の人影が姿を現したが、その輪郭はあまりはっきりとしなかった。
だが翡翠色の髪に大きめの赤い王冠をかぶり、大きな紅蓮色のマントに身を包んだ青年。観衆に向かって手を振っている彼こそが、この国の王子であり新郎でもあるヘイデンなのだろう。
その隣には、白いローブを何重にも重ね着した小柄な女性が居た。ブロンズの髪が胸元まで伸びている、そんな清楚な雰囲気の彼女が新婦であるミント姫なのだろう。昨日の衛兵から聞いたとおり、顔はよく見えないものの美人の風格は十分ここまで伝わってくる。
「あれがヘイデン王子とミント姫なのかな?」
「うう……なんにも見えないわ」
あまり視界が利かず、分かることといえばこれくらいだったクロード。だがレナはそれよりも酷い状況のようで、完全に周囲の人波に圧され披露宴など見れるような状態ではなさそうだった。
しかし、ヘイデン王子がなにやらテラスの上で口を開くと、辺りはまた静まり返った。彼の声はあまり大きくないため、静かにしていないと何を言っているのか聞き取れないのであろう。
「みなさん、今日はここに集まってくれてありがとう!」
微かに聞こえる声と、ヘイデン王子の口の動き。そこから判断するに、彼はこのようなことを言っていた。
「今日はこの国にとって本当にめでたい日だ。このような日を迎えることができたのも、目の前にいる我が国民のおかげだと思っている。この場を借りて感謝の言葉を述べることにする」
ここまで言い終えると、ヘイデンはすっとミント姫の肩を抱いた。群集からすこし「ああ……」と感嘆の声が漏れる。
「そして、こちらが私の婚約相手であり、ゆくゆくは我が国の王妃となるミント姫である。みな、暖かい祝福を!」
湧き起こる歓声に、ミント姫は笑顔で手を振って応えた。
「あら、いい王子様じゃない?」
場が落ち着いたことでようやく披露宴の光景を目にすることのできたレナが、クロードにそう囁いた。
「国民思いだし、かっこいいし、まさに国を代表する人物の器って感じね」
「そうだね。すごく周りからも慕われているみたいだし」
クロードはそう返すと、再びテラス上の二人を見た。レナの言うとおり、このヘイデン王子はすばらしい人物だということは、なんとなくクロードにも感じ取れた。
国を治めるには、才力以外に風格も必要だ。威厳のない王に国民は従ってくれないだろう。
だが、そんな素晴らしい王子の結婚式だというのに、何故かクロードは少し違和感のようなものを感じていた。言葉では説明するのが難しいが、なにか隣に居るミント姫、彼女の様子がどうも不自然に見えたのだった。
「ねぇレナ?」
「ん、なぁに?」
クロードは口を開いた。
「ちょっと思うんだけど、あのミント姫って………」
――――ズズゥン……――――
しかしその瞬間、どこからともなく鈍い音が辺り一面に広がったのだった。
「な……なんだ!?」
その重たい音はテラスの方から連続的に鳴り響いた。
「う、うわーー! 大変だ!」
「お、王子様は!? 姫様は!?」
悲鳴と叫び声が巻き起こる。途端に会場は大パニックになった。
何が起こったのか確かめるべく、クロードとレナは王子と姫が居た場所を注視する。するとそこには濃い紫色の煙が、テラス全体をもうもうと覆ってしまっていた。
中の様子は全く見えない。煙はテラスの中から沸いて出てきているようで、もくもくと奥から押し出ては地面へと垂れかかっていく。
「なんだ!? なにが起こっているっていうんだ!?」
あまりにも急な事態。クロードはすぐに現地へと駆けつけたかったが、大混乱した人海がそれを許してはくれなかった。
そうこうするうちに、少しずつ煙の色が薄くなってゆく。煙の発生が終わったようで、だんだんテラスの様子が少しずつ明らかになってゆく。
「お、王子様!」
「そ、そんな………!?」
まだ紫色に曇りがかっている城のテラス。そこには元々居た4人の正装着の人間が倒れこんでいた。ヘイデン王子も同様にその場にぐったりと倒れてしまっている。そしてその隣には……
「だ、誰だ……!?」
そこには道化師の仮面を被った人物が一人、ぐったりとしたミント姫を片手に抱えてその場に佇んでいた。
何も音を立てず、男は静かにその場に立っている。全身を黒い装束のようなもので包んでいるその道化師は、何も言わずに少しずつテラスの淵へと足を進めていった。
群集は相変わらず混沌としていた。ついにはショックで失神する者まででてきている。衛兵が必死に事態の沈静を図ろうとしているが、この人の群れの前では焼け石に水だった。
「くそっ、やめろーーっ!」
クロードは必死に声を上げた。だが、それも騒動の中に掻き消されてしまう。
まるで時間が止まったかのような、城のテラスの上。道化師は淵まで来ても足を止めることなく、吸い込まれるようミント姫を抱き抱えたまま飛び降りていってしまった。それは本当に一瞬の出来事のようだった。
この日、フーラル王国の王都ジルハルトで大事件が起きてしまった。婚約者として隣国キーサイド王国から迎え入れたミント姫が、謎の道化師によってさらわれてしまったのだ。
そして奇遇なことにその事件の一部始終を、クロードたちは目の当たりにすることとなってしまったのであった。
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